昭和47年02月06日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしていくのが、真の道を踏んでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 神より金光大神にいつまでも、尽きぬおかげを、限りない無尽蔵のおかげの頂けれるお話を、皆さん頂くわけでありますね。ですから尽きぬおかげを、しかも限りなく頂いて行くということは、どう言う事だろうかと。「どうぞ神様お願いを致します。お願いを致します。」と言うてお願いして、お願いをしたことだけが成就すると、言う様なものではない。一番最後に、「神になりても神より上になると思うな。」と仰せられる、神より上になるということ。私は思うのですけどね。
 皆が神様より上になっておる様な信心をしておるから、尽きぬおかげになって来ないのじゃないかと思うですね「今日はどこどこ集金に参りますから、どうぞよろしくお願いします」と、まるきり神様を集金人のように思うとる事などは、もう神より上になった様なものですよね。神様をもう使わん者が損と思うごとして、何でもかんでも神様を使おうとする。私は思うのにね尽きぬおかげというものは、例え願わんでも頼まんでも神様の方が先回りをして、おかげを下さるようなおかげこそが尽きぬおかげだと思う。
 明日金が百万円要ると言う様な事がです。例えば不意のことがありましょうがお互いは。お願いしとらんやったと、不意打ちにお金がそんなに沢山いる時です。神様がちゃんと前の日から用意してござる。尽きぬおかげと言う事はそう言う事だと思うですね。と言うて、願わんで良いと言う事ではない。実を言うたら、私共は願わなければならないことばっかり。けれども、その根本になる精神というものは、尽きぬおかげを頂けれる、信心を目指すと言う事。そこでいわゆる神様を使うと言う事ではなくて。
 神様に使われる氏子、しかも使われ良い氏子、を目指さなければならない。願わなければならないと思う「どうぞ神様、御用に使うて下さい。使うて下さい」と言うても、「ああそうか、なら一寸金百万円」と言われてもなかったら出来んでしょう「お前一寸済まんけれども、この荷物あっちに持って行ってくれ」と言われても、さあその荷物を動かすことが出来なかったら「お役に使うて下さい、使うて下さい」と言うても神様は御用には使うて下さいませんまあ。例えばご飯の御給仕するのでもそうです。
 「神様がままになられる御用に使うて下さい」と言うても、その御給仕人が器量が悪うしてから、鍋墨つけたような顔の人が、「どうぞ」と言うて、御給仕役を願ったところで、そういう氏子に給仕役を仰せ付け下さる筈がない。問題は心が綺麗で、しかも清らかで、言うなら汚れを落としたというだけでない。それにお化粧の一つもして初めて、御給仕人としての御用が出来るように、ただ「御用に使うて下さい、使うて下さい」では、力もなしに使うて下さい。それでは使われません。
 汚い心を持っておって、「どうぞどうぞ」と言うて、それはよもや神様が御給仕に使うようなことはありません、ですから神様が使われて下さる。言うならば使われて下さる、「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになるから」とこう仰る。ですから私共がまず神様任せになると言う事が先であり、まず神様に使われることになることが、神様が願わんでも氏子のために働いて下さる。
 神様の方が使うて下さる。それを私共は、お役に立つどころか、神様が使わん、何か損みたいな信心がよし何十年続いても、それを尽きぬおかげを頂くことが出来んのです。金光大神はそういう道を教えて下さる。氏子あっての神、神あっての氏子と言う様にです、私共がまず神様に使われる私共になる。だから使われるようになると言うまでにも、そこに一つの信心が、一つの信心が目指されねばならない、一つの一線上に出なければならない。神様に使われる氏子としての。
 昨日は壮年会の信心共励会でしたが、まあ色々良い話が出ました。久留米の石井さんがお話をしておりましたが、いつ聞かせて頂いても、成程頂いとる所を頂いとるなと思うです。信心をさせて頂いておってね、不平を言うたり不足を言うたり、腹を立てたりしておったんでは馬鹿らしい。おかげに直結する事だから、不平言うただけおかげが減るのである。腹を立てれば立てるだけガバットおかげが方が。少なくなるのである。
 だからまあそう言うが分かりやすいから、馬鹿らしいと言うけれども、実を言うたら馬鹿らしいというのではなくて、腹を立てては勿体ない、不足を言うては勿体ないと言う訳です。確かにそうです。私は今朝御神前に出らして頂いてすぐ、今日の寒修行明けの事のお礼申上げさせて頂いておりましたらね、御心眼に頂きますのが『サイコロ』振るやつ、あれのもう角がとれてほとんど真丸うなっているところを頂くのです。どう言う様な事だろうかと思わして頂いたら、今日御理解六十一節を頂いた。
 ははあ「尽きぬおかげを話にしておくのぞ」とおっしゃる。尽きぬおかげを頂けるためには、このサイコロのような信心にならなければならないと思うのです。と言うのはどう言う事かと言うと、いわゆる、あれは出たとこ勝負でしょう。一から六までのあれが出ていますよね。一が出るやら五が出るやら分からんのです、出たとこ勝負なんですね。ですから例えば今日1日でもこれから先、それこそ障子一重がままならぬ私共でありますから、どう言う事になるやらあるのやらわからんのですね。
 例えば腹の立つような問題がもうそこに、が待ち構えておるかも知れません。痛い思いする様な事が起こるかも、いやもっともっとひどいことがあることがあるかも分からん。それは分からん。いわゆる、出たとこ勝負なのです。だからそこのところの時点がです、出たとこ勝負。そこのところをです、私共がいかに有難く受けるか、勿体ないと受けるか、相済みませんと受けるかと言う事なのです。
 自分の都合の良かことだけなら、有難うございますと、それが都合の悪い事でありますと、これだけ信心するのにという心が起こったのではですね。ですからそういう出たとこ勝負、その出た所をその時点を大切にすると言うか。有難く頂ける勿体ないと頂ける、相済まんで頂ける信心を、日頃稽古しておかなければならんのであり。またそれをです不平で受けたり不足で受けたり、腹立ちで受けたんじゃ、いわゆる馬鹿らしいと言う所まで。馬鹿らしいじゃない、もうそう受けるのが本当なのだと言う事。
 ここで言われる、すべてが御事柄として受けなければ勿体ないの、なぜって神様の御働きなのだから。それを例えば算盤ずくで行くならですたい、おかげが頂きたいと思うならです、それを例えば不平で受け、不足で受けたんでは馬鹿らしいのだ。おかげがそれだけ差し引かれる。信心には「家庭に不和のなきが元」とおっしゃる。私は本当に信心してとって、どうしてあげん夫婦仲が悪いじゃろうか、信心しとってどうしてあんなに嫁と姑の仲が悪いじゃろうか、兄弟喧嘩をする、これは不思議ようである。
 ですから、私共信心させて頂いて、家庭に不和のない所までです、ここが一つの一線上です、だからそこまでは金光様の信心は信心と言えないくらいです、だと私は思うですんね。そこを頂いたとき始めて信心は家庭に不和のなきが元、いわゆるそこからが信心になるのです。不和というのは和ではないと書いてある。だから普通で言う、あっちは夫婦仲が良い、親子仲が良い、そういうものじゃないです、と今日は私は思うです。そのサイコロの角のとれた丸いサイコロのところを頂いてそう感じるのです。
 出るところはどう言う所が出るか分からん、一に出るか、五に出るか分からん。けれども、それを丸く受けるということ、鬼が出るやら蛇が出るやら分からん、そこんところを仏心で受けて行く、神心で受けて行くということ。仲が良いのとは全然違う。不和と言うとられる教祖様は、不和のないが元と。もちろん和賀の和なのです。不和というのは、不和のなきが元と言うのは、和賀の和なのです。なら和賀心の和とはどう言う事かと言うと、これは不壊のもの、壊れないもの。
 さっきまでは円満の心じゃったけど、一時間後にはもう四角になっとると言う事ではないのです。どんな場合であっても、壊れないという心なのです。いわゆる出たとこ勝負と有難く受けるそれを内容というと、有難うございますとか、相済みませんとか、勿体ないとかと言う事になるのです。有難い勿体ない、または叩かれても済みませんという心なのです。鴨居で頭を打った、自分が辞を低うすることを思わずに、「ああ痛いよ」と言うて、鴨居を叩く人がある。それではいけんのです。
 ああ痛いと思う次の瞬間には、神様相済みません、これなのです。それが私は和賀心の和と思うのです。また不和のなきが元とおっしゃる、なら和になれ信心は家庭に、和になることが元ぞと仰る。そこでです。例えば家庭が親子兄弟、いろんな家庭構成がありますが、只こっとりとも言わんようにあるのでなくて、私は今日そこんところを思わせてもらうのに、私共が信心させてもらう一人一人がですね。
 例えて言うならば、家庭の中の光になろう、教会の光になろう、社会の光になろう、教団の光になろう、社会の光になろう、私はその光になろう、光を求めるのが信心であると思う。光を求めず、おかげだけを求める、ですからいつでもこの光が灯っておる。ですから、家庭の中で、例えば、暗い思いをしている人でも、中心になる光がありますと、もうそこには明るいものだけしかない。光を願わなければなりません。
 信心は自分の心に光を願うこと。そして自分の持ち場立場で、その手元のところを、その光でうるおうて行こうというのが、私は信心と思う。ですから、例えば夫婦の問題でも、家内がどんなにブーッとした顔しとっても、ブッとしても、その主人の光に触れたら、にこやかになってくるようなおかげになってくる。おかげを受けなければならん。それをまた言葉を換えると、合掌して受けると言う事になりましょう。又は拝み合うと言う事になりましょう。
 それは自分に都合よくしてくれるから拝むのでなくてです、自分には反対にです、昨日清司さんが、そこん所を言うておりました。自分に都合の悪い、むしろ自分を憎んでおる、言う様な場合に、向こうが向こうだからこっちもこっちというたら、もう信心はありませんというのである、それを無理して合掌してこうやって形の上だけで受けるのではなくてです、本当に合掌しなければおられん所迄追求しろというのです。
 それがならどう言う事になるかというと、これは相対人間関係の場合でも、相手が自分を例えば憎んでおると致しましてもです、憎まれる自分というものを本気で見極めさして頂いて、そのことによって改まれ。そのことによって自分が研かれて行け。ですから、あなたのおかげで改まることが出来ましたと言う所に、初めて相手を拝むことが出来るんだと言う事を話しておりますね。只いきなりにどんな人でも拝め拝めと言うたところでですこちらがおかげを頂かねば拝めないというのである。
 家庭に不和のなきが元、私はそういう例えば尽きぬおかげを頂くには、そういう一つの一線上に出なければ駄目です。そこからですそういう心が、段々家庭だけではない、教会だけではない。だんだんその祈りというものが、願いというものが、その光というものが大きくなってくる。本当に世界の真の世界平和を祈らねばおられない。真に世界の総氏子の身の上安全を願わなければおられない。
 最近なんか私本当に世界中のいわゆる精霊、御霊様達の事も祈らねばおられない、願わずにはおられない。その為には唯願っただけではでけん、本当にその願いが成就して行く事の働きになってこなければならない。天地の親神様の願いというものが、私は本当に世界中が和賀心時代になる事だと思う。和賀心時代を神様、創ろうとなさる。ですから私共がその御用に携わらせて貰わねばならん。和賀心時代を創るのである。
 ですからこれはもう、それこそ千年万年億年かかるかもしれませんが、そういう願いというものが、やはり、千里の道も一歩からですから、私共が、お道の信心さして頂く者が、まず只今申しましたように、家庭の中が和賀心で一杯になる。それは只仲が良いというだけでない、どのような場合であっても、相手が拝めるという信心、それを自分たちの周辺に広めて行こうと。
 そこで、そういうおかげを頂いて行く人の手立てとして、例えば今日私は、この六十一節から、尽きぬおかげを頂かして頂くために、私共がどう言う事にならねばならないか、いわゆる「神より上になると思うな」と最後に締めくくっておられる。神より上になるということは、神を使うと言う事、そういう信心が何十年続いたところで駄目だ、神に使われる私になれと申しました。
 なら、使われるためにはです、私共がまず光を頂かなければ力を頂かねばなたないと言う事。言うならば神様が先回りをして下さるようなおかげ頂けれる信心を頂かねばならぬと言う事を申しました。その元になるものは、言わば「家庭に不和のなきが元なり」と申しましたですね。なら不和がないというのはです、家庭が仲ようして行く様な事は、これは信心がなくても仲良うしている人もありますよ。随分とですから、仲良うして行くてんなんてというものとはもうだためが違う。
 不和というのは、和というのは、不和のないが元というのは、和であれと言う事である。和と言う事はどう言う事かというと、出たとこ勝負。どういう目が出ましても、それを有難い勿体ない相済みません。それは叩かれてもあいたという前に、相済みませんが先に出るような在り方にまずなれと申しましたですね。そこで例えば、それがたとえ叩かれても済みません、有難うございますと受けれることがです。
 神様が差し向けて下さる御事柄だから、それは当然有難いで受けなければ、勿体ないで受けなければならんと言う事をまあ知らなければなりませんけれども、それが実際の上にです、本当に血になって行く、身になって行くようなおかげを頂くために、私共常日頃、いわゆる「天地日月の心になること肝要なり」とおっしゃる。ここに本気で取り組まねばいけないと言う事です、金光様の御信心はここです。私共がいつもそんならその和の心を頂いとればよいのですけど、そうではない。
 暗い思いをしておったり、不平不足の心があったり致しますけれども、けども修行というのはそれが修行です。そこでいわゆる天地の心を心として、日月の心を心として行くという生き方というものを、日常生活の上に頂いて行かねばならん。いわゆる天の心である。いわゆる与えて与えて止まない心である。そこをここでは限りなく美しゅうなろうと言うのです、限りなく与えて行こう天の心、さぁこれは辛抱が出来んと言う事でも、それを地の心で受けて行こうと言うのである。
 黙って治める、さんずい編ににム口(無口)と書いて治めるという、これは土の心、大地の心なのです。もうこれで治めることが一番最高なんです。いわゆる天の心が限りなく美しゅうならして頂く、与えて与えて止まない心を、自分の心に頂いていこうと精進する。大地の心、受けて受けて受けぬいて行こうという姿勢。日月の心、それこそ実意丁寧神信心、正確無比ね。
 教祖様が実意丁寧神信心ということを御自身の生命、御自身それを思うておられたかどうか分からんけれども、金光大神の信心を頂いて、私共がもう類のない実意丁寧さでおありになり、信心であったと私共は頂いておるわけでありますから、いわゆる金光大神の生きられ方、それを神習わせて頂こうというふうに、まあ言われております。けれども金光大神の言うならばそういう天地日月の心そのものでございましょうけれどもです、只その金光大神の生き方だけが真似られたものであっては。
 それこそ「心の真似は出来んから」と仰せられる。いわゆる実意丁寧のおかしな実意丁寧ですね。実意丁寧の化物のようになってくる、金光大神の生きられ方だけ真似したのであっては、いわゆる金光大神の言うならば魂のあととでも申しましょうか、心の真似が出来んからと仰せられます。心の真似のこと、それは一ぺんに出来ることではない、「天地日月の心になること肝要なり」とおっしゃる。
 そういう信心をさせて頂いておりますと、「ああこれが教祖様がお考えになった思われた心ではなかろうか、それは違いましょう」けれどもそういう心になれるのです。だんだん近付いて行けれるです。天地日月の心にならして頂く信心、その精進をさせて頂というくことから、そこに生まれてくるのが体験なのです。だから信心というものは、それこそ嬉しゅう楽しゅうさしてもらわなければならない、嬉しゅう楽しゅう出来ることのためにです、私共がです、和賀心なら和賀心を目指さしてもらう。
 今日私が申しましたような、一つの信心の過程といったようなものをですね、「信心は家内に不和のなきが元」と言った様な所をまず目指さしてもらう。その目増させて頂くしの手立てとして、言うなら「天地日月の心になること肝要なり」と仰せられる、肝要なところを本気でそれを修行の上に頂いて行く。そこから生まれてくるのどがおかげなんです。ですから、おかげがそれに付いてくるからはり楽しい。そういう私は体験を、人に実意丁寧に話して行くのが神様へのお礼であり、しかもね。
 それが神になるとまで教えておられます。
 ただおかげ話どもしてからお導きというのではなくて、私共がお道の信心の一線上、それを私は家庭に不和のなきが元、その元と言う事ところまでを頂かしてもらう、そこから生まれてくる体験。それこそ花咲か爺さんじゃないけれども、臼を割られても犬を殺されても、それを有難く受けて行くそれを受けて行くと言う所に、枯れ木に花が咲くような、私共が天地日月の心になると言う事は、場合にはそれがある。
 本当に臼を割られたのじゃなかろうか、犬を殺されたのではなかろうか、そこのところを頂き抜いて行くと言う所に、枯れ木に花の咲くようなおかげが受かれる。そういうおかげでなからねば、神様を現わすと言う事にはならない。ただ神を現わす、神を現わすと言う事は、例えば金を儲かったとう言う位な事なら、信心がなかったっちゃ、金は儲かりよる。それこそ枯れ木に花と言う様な、おかげを頂いてこそ初めて、成程神様じゃなあと言う事になる。
 私共が神様を、いわば神様に使われるというね神様を使う信心から神様に使われる信心ならせて頂く為に、例えば今のいろいろな日段階をおってお話しさせてもらいましたですね。家庭に不和のなきが元という所まで、不和のなきが元というところの、例えば修練というか、稽古さして頂いている間にはです、それこそ理不尽な、それこそ花咲か爺さんではないけれども、そういう思いもすることもあるけれども、そこを天の心で受けて行き、地の心で受けて行き、いわゆる正確無比である。
 日月の心、実意丁寧を以そこんところを頂いて行く、そういう行き方、そういう稽古をさして頂くことが、楽しゅうなると言う所まで、信心はね高めて行きたいと思います。今日は最後の寒修行、前々からお願いしてございました、平田会長においで頂いて、先生のお話を頂くことになりますけど、今日私が頂きました、先生の信心のところを、この六十一節を頂いて、それこそ「神より上になると思うな」と。その神様を使うのでなくて、神様に使われ通しに使われてござるところにですね。
 私は平田先生の信心の素晴らしさがあると思うです。それはもちろん、神様に使われる、「氏子の用は神が足してやる」という程しのおかげを受けておられるが、そう言う事なんかはもう条件の中にはないと思う。先生の信心ならただ、神様の御用に立ちたい、お役に立ちたい立ちたいの一念がです、それこそ、言うなら教団全体を舞台として、踊り回っておられるという感じが致します。
 今日は幸い丁度時間が一時間余りお話の出来る時間がある、時間が終わるともうすぐ東京かどっかへお発ちになるそうです。それこそ席のあたたまる暇もようにして、御用にお使い回して頂いておられます。まだ足元による事じゃございませんけれども、私共がまずです、まあ自分いうならば家庭を舞台として、少し長じたら教会を舞台として、本当に踊り回れる信心を頂きたい。真っ暗い心で踊り廻ったっちゃつまりません。
 自分の家庭、自分の受け持ちの場でです、言うならばそこに光を放てるだけの信心、光を願うと言う事を今日私は申しましたが、信心とはとにかく光を頂く事、不和のないが元と言うても、私の心にどうぞ光を与えて下さいと言う願いであるから、それを例えば有難い心を消したら馬鹿らしい、勿体ない事に成って来るのです。ですから家庭で言わば私共の信心が、家庭の舞台で踊らしてもらう。
 まあ教会を舞台にして踊らして貰う。いわゆる神様にそういう御用お使い回して頂けれる信心を頂かねばなりません。それにはどうしてもお使い回して下さいと、使うて下さいと言う前に、私共は使われる私共にならして頂かねばならんわけであります。私は思うのですけどね、今日私は申しました一線上に出らして頂きましたら、もう信心が楽しゅうて楽しゅうて、光が大きくなって行く事が有難うして有難うしてこたえん。
 平田先生の場合なんかそうじゃなかろうかと思う。もう自分の心の中に。光が大きくなって行くことが楽しゅうて楽しゅうてたまらんという感じです。ですからまず小さくとも、私共が心に光を頂かせて貰う、そこからをの光は光り出されるところのおかげというものを分からせてもろうて、それを丁寧に家庭に、自分の周囲に、それを聞いて貰う、話をして行くことが神様にお礼にもなると言う事と同時に。
 それが一段とまた神様に近付いて行くこと、それが神になるのぞとまで受けておられるのでございますから、そういうおかげを頂きたいと思います。今日のしめくくりを平田先生のお話で、一月間一生懸命修行させて頂きました内容を振り返らしてもろうて、どれだけ血になったか肉になったかというものを検討して、これからの信心の土台と言った様なものにして行きたいと思うております。
   どうぞ。